2015年5月11日、母の病気が告知された。
レントゲンをみたかかりつけ医の薦めで総合病院での検査を受けたので、結果を聞きに行くと母が打ち明けた。GWは実家でゼノブレイドクロスを遊び倒し、5月10日に東京に戻る予定だった僕は予定を一日ずらして一緒に結果を聞きに行くことにした。前日の夜二人で散歩してる間、母は予感があったのか「まあ大丈夫だとは思うんだけど、何かあっても私はこれまで十分幸せやから後悔しないと思うわ~」と言っていた。
当日朝。先生からの説明では大腸がんがかなり進行し、肝臓にも転移していると考えられる(ステージIV)とのことだった。説明を受けて診察室から出た母はしくしく泣き始めた。生存期間の中央値は2年ちょっと。母はどれくらいいてくれるか分からないけど、残された時間が母にとって不安や心細さと戦うだけではない有意義な時間になるように、僕たち家族にとっても悔いを残さないように、ここからは母の心の支えになることを最優先にした生き方に切り替えようと決めた。
告知の時点で腸閉塞を起こしかけてるということで即日の入院になり、母も一緒に家に荷物を取りに戻った。もしかしたらもう家に帰って来れないかも…という考えがよぎったのか、だいぶ無理した作り笑いでの玄関前の記念写真が残ってる。幸運にもそれから何年も家で過ごすことができた。
手術で入院するたび、僕は地元に滞在して毎日何時間も病室で話した。思い出話や未来の話、近況や最近興味のあるネタ。あと退院した後のお楽しみとして、引っ越しの物件選びや部屋のレイアウトを一緒にやったり。母は聞き上手で何にでも興味をもって聞いてくれるので、何時間話しても話題は尽きなかった。なんなら僕がオタク特有の早口でウェブブラウザの動作の仕組みについて話したり記号論理について話したりしても興味深そうに聞いて色々質問してきた。
話はそれるのだけど、僕が産まれる少し前に亡くなってた母の母はとても賢い人だったのに「女が大学なんてとんでもない!」という考えの家で進学を断念したらしい。僕の母も勉強がとても好きだったので、母の母は今度こそ大学に行かせてあげようと一生懸命動いたそうだけど、やっぱり「女が(略)」の壁を破れず進学を諦めたと聞いた。時代とはいっても、こうやってどれほどの芽がつぶれてきたのかと思う。母は「お母さんと私の系譜があんたで花開いたんやと勝手に思ってるわ~。お母さんにあんたを見せてあげたかったなぁ」とよく言ってたので、あっちで会えてたら多分ドヤってると思う。
話を戻すと、大腸の手術は成功して回復も早く、肝臓の転移巣もどうにか手術ができるということで翌月手術し、晴れて「見えてる腫瘍は全部切除できた」という状態になった。術後の化学療法はその状態での成績や母の希望を鑑みてやらないことにして、ボーナスステージを元気で有意義に過ごそう!ということになった。
以降、僕はだいたい2週間に1回くらいのペースで実家に帰るか母を東京に迎える生活になって、色んなことを家族で一緒に楽しんだ。実家に帰るときはノープランで帰ってダラダラとゲームをしつつ一緒に外食したり買い物したりといったのんびりした過ごし方が多かったと思う。2,3か月に1回程は旅行にも行った。おいしいもの好きだったので食事重視の旅が多かったかな。東京に来る時は妹が姪甥も連れて一緒に来ることも多く、ディズニーリゾートは10回以上行っただろうし他の観光地やイベントも色々回った。母単独で来るときはだいたい1週間ぐらいのんびり家にいて、僕が仕事してる日中はショッピングしたり東京にいる親戚と遊んだりしてた。特に麻布十番に住んでるときはよく来てたので、商店街には住んでる僕より断然詳しくなってた。
東京と兵庫に分かれてる普段の遊び方も、Discordをつないで母と一緒に遊べるようなオンラインゲームを好んでやるようになった。特にFF14は2人してすごい(3800時間)やった。母はリアルでもすごく友達が多い人で、買い物に一緒に行くとすれ違う人に次々に声をかけられてなかなか目的地に着かなかったりするのだけど、FF14でもどんどんフレンドを増やしていて、僕が高難度コンテンツに出かけてる間も母だけ誘われて遊んでもらってる様子だった。操作はもたつくしチャットも遅いのだけど、ゆるキャラのおかげか若い人たちにずいぶんかわいがってもらっていた。自分の銘が入った装備を使ってもらえるのも嬉しかったそうで、アイテムの制作と販売については僕よりやりこんでて僕の装備も一式作ってもらったりしてた。ほかにも、ドラクエXはVer.4の途中あたりまでやったし、Diablo3もGR120くらいまでだけど二人で遊んでたし、スプラトゥーン(ベストでA+だったかな?)やマイクラやConnan ExilesやBorderlands 3なんかも結構やった。今年だとValheimとか。最初の頃はゲーム慣れしてなくて、どうしてもキャラを動かすのと視点を動かすのを同時にできず困ってたのだけど、一番最後にやったモンハンライズなんかは発売直後の集会所クエ最後あたりまで一緒にやって、DPSは高くなさそうなものの全然乙らないので「ばーたん(母の愛称)もゲーム本当上手になったよね~」という話をしてた。すっかりゲーマーになった母はオフラインでもあつ森やStardew Valleyを1000時間ずつやってたりもした。
ボーナスステージを一緒に楽しく過ごしていたけど、3か月ごとの検査では、結果を聞きに行く前日から緊張してよく眠れず、当日問題なしだったって報告を聞いては「やったー!!また3か月全力で遊ぼう!早速だけど来週の3連休東京来ない??」と盛り上がったり、何か見つかったって連絡受けては「そっか…そっか…とりあえず今からそっち帰るわ」と一緒に落ち込んだり、受験の合格発表でもこんな緊張しなかったぞってくらいのジェットコースターだった。毎回いい結果とはいかず、リンパ節への転移が見つかったり、肺への転移が見つかったりしてその度に母はくじけそうになってたけど、幸運にも毎回手術で取れる範囲だったのでどちらも術後に若干ダメージを残しつつもいつもの生活に戻れた。
2019年12月、肺への2回目の転移が見つかり、とうとう手術が難しいということで抗がん剤治療を始めることになった。その少し前、母が昔から夢だと言ってたクルーズトレインに連れていこうとこっそり2015年から申し込み続けてたななつ星が当選したので、母にプレゼントするから行こうねって伝えてたとこだった。旅程が2020年4月だったので、母は抗がん剤についての打ち合わせの一言目が「ななつ星に元気に行きたいのでそれだけどうしてもお願いします」だった。一番薬が抜けてるタイミングで行けるよう調整しましょうということで2020年2月からmFOLFOX6での抗がん剤治療が始まった。
ここでコロナ禍が始まってしまった。抗がん剤治療中のハイリスク群ということもあり、2週に1回実家に帰ってた僕は全然帰れなくなった。できるだけテレビ電話を繋ぎっぱなしにして近くに感じられるようにしてたけど、母は心細い中での抗がん剤治療になったと思う。ななつ星は2020年4月の便がキャンセルされてまい、2020年6月の便に申し込み直したけどそれもキャンセル。2020年10月の便に申し込み直したけど、正直もう行くのは厳しいのではと思ってた。母はななつ星に行くのを生きる希望にしてる節もあったので、とにかく延期されただけで行けるからね、元気で待とうね、と説得するのに必死だった。
僕のネガティブな予想に反し、2020年10月の便は定員を大幅に減らした上で決行された。僕と母の二人で車両1つを占有する贅沢な旅。コロナ禍の中抗がん剤治療中の母を連れ出すことは当然大きなリスクを伴うけど、何かあっても後悔しないと思えるだけのできる限りの対策をして出かけた。3泊4日の旅の間の母は本当に楽しそうで幸せそうで、心から行けて良かったと思う。この旅に一緒に行けて幸せそうな母の様子をみれた事は今後の自分の人生でも支えになる気がする。
そして2021年を迎えた。母は抗がん剤の副作用が重くなってきていて、そろそろ効かなくなることも予想され、一緒にいられる時間が短くなってきているとも感じられた。母の状態が悪くなってもコロナ渦の中で入院すれば面会は難しく、一人にしないためできるだけ家で療養してもらおうとすれば実家で人手が必要になることも想定された。僕自身、少しずつ悪くなる状況に消耗しながらコロナ渦で気分転換も難しかったせいか、メンタルに異変を感じていて、同時に僕がメンタル不調で倒れた場合の家族の厳しいシナリオを恐れた。それらを併せて考えた末、仕事を辞めて地元に戻ってくることにした。決めた後は急いだので、職場には急な話で迷惑をかけてしまった。
2021年3月、戻ってきたとはいえ切羽詰まった状況ではなく、僕は実家の近くに部屋を借りつつ母とはのんびりと遊び過ごした。週のうち3日は僕の家で母と過ごし、2日は実家で母と過ごし、2日はそれぞれの家で過ごしてる感じだったと思う。人通りの少ない時間には大阪の街をあるいて「あそこもおいしそう、ここもおいしそう。コロナが落ち着いたら食べに行こうね」と盛り上がってたけどそれは叶わなかった。
4月の検査で、今まで抑えられていた肺の腫瘍のうち1つが急拡大してることが分かった。それ単体は手術で取れるということで取ることになったのだけど、手術が決まった辺りから母の様子がおかしくなった。今まで毎日やってたゲームをパッタリやらなくなり、一日の半分以上を寝て過ごすようになった。鬱を疑いつつ、手術が終われば改善するのを期待した。入院の日、母は「なんで今回はこんなに悲しいんやろ…」と言いながら泣いて、玄関に行きかけては何度も部屋に戻ってきて名残惜しそうにしてた。入院でこんな様子になるのは初めてだった。
その夜から翌朝にかけてラインのやり取りが支離滅裂になったのが心配で病院に電話したところ、母は自分でも支離滅裂さを自覚した上で、このままボケて迷惑をかけ続けるのが怖いと看護師に言いながらずっと泣いてるとのことだった。慌てて看護師の方に無理を言って遠目で良いので会う許可を得た上で病院に行くと、遠くから見た母は車椅子に乗っていて自力で立てなくなってた。昨日スタスタ歩いて入院して、まだ手術してないのに。僕はスマホ用のイヤホンとマイクを渡して、大部屋でも小声で通話する許可をもらった。スマホの操作もおぼつかなくなっていた母だけど、その後はDiscordの通話を繋ぎっぱなしにして話していたら気分はずいぶん落ち着いた様子だった。スマホを盗られたくなくて手術室に向かう時さえスマホをギュッと握ってた母は、初めての面会の無い入院が相当に寂しかったんだと思う。手術後の通話も元気な様子で、退院も前倒しになって帰ってきた。術前の鬱っぽい症状は晴れていて、ご機嫌な感じでリハビリに励んでいたので、このまま今回も良くなっていくのかなという感じがした。ただ、スマホの操作の覚束なさは少し残っていた。
退院後数日が過ぎた後、数分前に飲んだ薬を忘れたり曜日や日付が答えられなかったりという認知症っぽい症状が目立ち始めた。呼吸器科の診察の時に伝えてみると「続くようなら脳梗塞とか疑った方がいいかもしれないけど、今回の手術はショックも大きかったようなのでストレスかもしれませんね。ちゃんと治りましたから元気だしてくださいね」という反応だった。その数日後、一緒に散歩していると母が見えてる電柱に左肩をぶつけた。アレ?って思ったらもう1回同じぶつけ方をした。これはやっぱり何かおかしいということでかかりつけ医に連れて行くと、念のため脳を診てもらった方がいいのではということになり、翌週にあった主治医の診察を前倒して会って神経内科を紹介してもらった。気になる症状の1pagerを作って向かったところ「これは明らかに右脳に何かありますね。脳梗塞の可能性が高そうですがとりあえずCT撮りましょう」となり、撮って診察室に戻ると暗い顔で「おそらく癌の転移ですね。脳神経外科の方にすぐ向かってください」と伝えられた。外科の方では腫瘍が4cmとかなり大きいので早めに手術しましょうということになりすぐに日程も決まった。認知症っぽい症状が腫瘍のせいなら取れば良くなるから!と励ますのが精一杯だった。
手術までの2週間程は、本当に毎日状態が悪くなるのが見えて辛い期間だった。パジャマはボタンを掛け違うようになり、そして自分でボタンを留められなくなった。歩くのは5分がせいいっぱいの状態から、僕が片側を支えないと歩けなくなり、やがて左半身がほぼ動かなくなった。自宅のトイレの場所が分からなくなったりもした。表現は悪いけど、母が壊れていく…と感じて辛かった。しゃべりは健在で普通に会話の掛け合いができていたのが救いだった。
5月下旬、長い手術の末、夜に執刀医から電話がかかってきた。腫瘍は綺麗に取れて成功だったけど、術後に大きいてんかん発作を起こし、今は薬で眠っているとのことだった。少しホッとしつつ早く声が聞きたいと思っていたけど、母の意識はそれから何日も戻らなかった。状態に変化がない間は特に連絡も来ないので、家族みんな何も手につかない日々… もうこのまま意識が戻らないのかもとも思い始めていたけど、約1週間経って目が覚めて徐々に意識が回復し始めた。目はあまり開かなくて口もモゴモゴした感じで会話までは難しかったけど、右手がうまく動いていたので、「帰ったら用意するお菓子は水ようかんでいい?Yesならパー、Noならグーを作って~」というとしっかりパーを作ってくれたりした。意思疎通がまた出来るようになったことがものすごく嬉しかった。
ハンドサインでの会話含めて、退院までビデオ電話がとても役に立った。母が脳の手術で入院するとなった時、スマホを自力で操作するのは難しいと思われたので、母のスマホをTeamViewerを使って遠隔操作可能にしておいて、看護師の方には電源を繋いだ状態でインカメラを母の方に向けておいてもらえるようお願いしていた。色んな意味でややこしいお願いかと思ったけど、すごく快く引き受けてくださった。母の方のスマホでは家族用DiscordサーバーのボイスチャンネルにカメラONで常時入っておいてもらって(この段階ではほとんど通信しない)、無職で暇人な僕がちょいちょい様子をみつつ、母が元気そうなときに家族に声をかけてみんなサーバーに集合、みたいな運用だった。病院に置いてある母のスマホ回線は元々使ってたIIJMioで足りなくなったので、多いときはLinksMateの300GBプランとかを使った。
6月に入り、母の回復ペースはとてもゆっくりで、なんとか柔らかい食事を嚥下できるようにはなったものの、問いかけへの応答はあったりなかったりという意識障害は続いた。執刀医の先生とは電話で何度か話したけど、髄液検査では今のところ陰性なものの髄液播種を起こしている可能性があり、その場合は早い経過を辿る可能性もありますという説明をされていた。2週間経って延期されていた術後ガンマナイフのため運ばれていった母は、6時間以上経ってからベッドに戻ってきたので、ずいぶん長かったけど何かあったのかな…?と思っていたら電話が来た。ガンマナイフ前のCTで、腫瘍を摘出した周りのスペースに広範囲に再発が広がっている事が分かり、できるだけ放射線を当てておきましたとのことだった。ここまでくると元通りの生活になるのはもう難しいのかなと覚悟せざるを得なくなった。
ガンマナイフも終わって病院でできる治療は完了し、執刀医には強くリハビリ病院への転院を薦められたけど、リハビリ病院に転院したあと自宅に戻ってこられる可能性はどれくらいありそうですか?と聞くと、厳しいかもしれません…との返答だった。リハビリ病院では当然面会も難しいので、家族と相談して、多少無理やりでも家に連れて帰ってくることにした。脳外科の先生には「本当に大変ですよ」と何度も警告されたし、大腸の方の主治医の先生も(これ本当に帰れる状態…?)と思ったそうだけど、連れて帰るとなれば訪問看護等のアレンジをする人や今まで看てきた看護師の方がいろんなアドバイスをしてくれた。吸引器の使い方も一応伝えるけど今のとこ嚥下は問題ないです!という看護師の力強い太鼓判が、さすが食いしん坊…!という感じがした。そして6月10日、家に帰ってきた。
全介助といっても訪問看護や訪問入浴等があるので、僕たち家族のやることは2-3時間毎の体位変換に食事やお下の世話くらいだと思ってたけど、腸の調子が悪かったり謎の神経痛に悩まされたりしてそこそこ付きっきりになった。それでも、退院時「状態は今がベストだと思います」との先生の予想に反して、家で過ごす母の意識状態は徐々に良くなった。最初は反応が薄かったけど、だんだん表情が戻って来て笑うこともできるようになり、会話もまずまずのテンポで成立するようになってきた。ずっと動いてなかった左手や左足も少し動かせるようになってきて、6月末にはかなり無理やりだけどディズニーシーにも行けた。家と駅、駅とホテルは介護タクシー、新幹線は多目的ルームを利用してほとんど寝たまま移動し、現地ではホテルで家族とゆっくり過ごしつつラウンジやレストランやパークに車いすで短時間ぶらぶらする感じの過ごし方だったけど、楽しい雰囲気の中みんなや東京の親戚とワイワイできて嬉しそうだった。7月中も調子は良く、会いたいという人に会いに来てもらったり、要介護5でも行けるリハビリ付きデイサービスもあるので行ってみようかみたいな先の話を始めたりもした。
ところが8月になって母は断続的に熱を出すようになり、熱の出てる間は目を開けていても問いかけへの反応がほとんど無くなってしまった。そして8月17日、午前中全く目が覚めず、思い切りつねっても反応がないので、病院に連絡した。昼に少しの間起きてくれたので少しの食事をとってもらって薬を飲ませたけど、これが最後の口からの食事になった。何度かの病院とのやりとりの末夕方に母を診てもらえることになり、ストレッチャーで連れていって、そのまま入院になった。診てくれた消化器の先生からは「脳の中枢がダメージを受けてるかもしれず、脳の検査をしても恐らく打てる手は無いうえ検査入院中に急変する可能性もありますが、入院されますか?」と問われたけれど、原因が分からないまま諦める事ができず、入院しての検査をお願いした。入院中はまたビデオ電話をセットアップしたけど、ほとんど寝ていたと思う。髄液検査は相変わらず陰性で、結局意識障害の原因はよく分からず、造影MRIで少し怪しいところにガンマナイフを当てて病院での処置は終わった。全身を診ると肺や肝臓にも再発の兆候が見られ、全身状態の低下も関係してるかもしれないですねとのことだった。
病院で出来ることはやった後、また家に連れ帰られると良かったけど、他に家族の心配事があったのもあって話し合いの末ホスピスに転院することになった。遠くてもいいから面会ができるホスピスの紹介をお願いすると、車で30分ほどの所では1日15分2人までの面会が認められていたので、9月の頭にそこに移った。残り時間の僕の目標は、寂しがりの母に家に帰れなくてもできる限り心細い思いをさせないことになった。
母はこちらの問いかけに何か分かりやすいリアクションを返すことはなくなっていたけど、話しかければ大抵目を開けてくれるし調子のいい時はこちらの顔を目で追ってくれるので、きっと聞こえてはいるんだろうと思って話しかけ続けた。日々の15分のお見舞いではできるだけ顔や体に触れて近くで声をかけ、家では僕が起きてる時はだいたいビデオ通話を繋いだままにして一方的に話していた。母は夜中に大きく目を見開いて通話の画面をのぞき込んでる時が多く、「僕は勉強でしばらく起きてるし、うるさかったらごめんやけど繋いだままにして見とくから気にせず寝てね~。明日も昼頃遊びにいくからよく寝て昼は起きてね!」とか言ってると安心したような顔で目を閉じて眠ったりした。そういう感じなので、聞こえてるだけでなく言葉も理解できてそうで励みになってた。そんな日々が2か月近く続き、僕たちは急激な変化を感じてはいなかったのだけど、手足の浮腫みが酷くなったころ、先生からあと1~2週間と思いますと連絡を受けた。点滴がもうできないんだろうなと思った。アイスを少量食べさせる許可をもらったのでハーゲンダッツのかけらを舌に少し付けてあげると、しばらくしてびっくりしたように目を見開き、スプーンをもう一度近づけると自ら口を開いたので、なんだか母らしい反応が見れた気がして嬉しくなったりした。
その1週間後の11月6日、朝から血圧が70台に下がっていたので、15分制限はそのまま4人までの面会制限に緩和するとの連絡が入った。3人にそのことを伝えつつ僕はお昼頃に面会に行くと、さらに血圧が下がって70を割ったということで面会時間が無制限になった。夕方になると血圧が測定不能になり、今日明日というレベルかもしれませんと伝えられた。いつもは寝てる時間が長い母だけど、その日は昼に面会してから夜中までずっと起きていた。寝たらもう起きれなくなると思ったのか、面会制限なくなって誰かしら傍にいたのでテンションが上がっていたか。夜を越せるか分からないとのことだったけど、夜間付き添いに残れるのは1人だけだったので、希望して僕が残らせてもらった。体をさすったりしながら色んな話をしていると、日が変わる頃急に呼吸の仕方が変わった。すぐに家族に向かってもらったけど、看護師さんは「呼吸が止まりかけてるのでちょっと間に合わないかもしれませんね」と言い、少し呼吸が落ち着いたところで僕と母二人の時間を作るため退席してくれた。今まで散々伝えたことを改めて伝えつつ家族が間に合うのを祈っていると、母はどうにか頑張ってくれて家族みんな揃うことができた。それから更に30分以上、みんなは泣きながらも言いたい事をしっかり伝え、覚悟も決まったことで少し落ち着き、思い出話とかで談笑しながら母を見守った。みんなで母の枕元で談笑するのは3か月ぶりのことで、ずっとやりたかったことでもあった。そして2時過ぎ、目を閉じそうになったり白目になりそうになったりしながらも抵抗を続けながら一生懸命呼吸してた母は、手を握る僕の顔をまっすぐ見たまま、家族の笑い声の中静かに呼吸を止めた。みんながにぎやかに騒いでる中で寝るのが大好きで、よくリビングで眠ってた寂しがりの母がこの状況を作ったのかなとも思った。最後までほとんど苦しむことは無く、母好みの状況でただ眠ったようにも見え、僕たちも「今のが最後の呼吸だったかな?…それじゃあ、看護師さん呼ぼっか」と落ち着いて受け止めることができた。良かったとは言えないんだけど、避けられない最期の迎え方として、これより良い形というのは僕達にはあまり思いつかなかった。
通夜・葬儀までは火葬場と友引の都合で2日空いたけど、日中は毎日母の友達が入れ代わり立ち代わり訪ねてくれて、さすがコミュ強・人たらしの母だなと思うと同時に僕の知らない母の話を聞けて嬉しくなった。夜中は毎晩母の枕元で過ごしたけど、この時間も気持ちの整理に良かったと思う。母大好きっ子の僕は母が亡くなるときどうなっちゃうのか、壊れやしないかと数年前から自分で心配してたけど、葬儀ではもうずいぶん落ち着いていて周りを気遣う余裕もなんとかできてた。
母の病気が分かってから6年半、心配な気持ちが頭から離れることは無かったけど、なんだかんだ長く充実した時間を一緒に楽しく過ごせたと思う。期間の長さゆえ、支えになり続けることに負担も少しはあったかもしれないけど、自分の人生の使い方に意味を与えてくれてもいたので、それを失ってこれからどんな感じになるのか今はよく分からない。目的なくふらふらする感じが続くのか、時間と情熱を振り向けたい対象が何かしら出てくるのか… 母が頑張って僕らにやさしいお別れ方をしてくれたおかげで悲嘆にくれる毎日とかにはならなそうです。
楽しかったね、お母さんありがとう。そっちで会う日まで、もう少しお土産話を仕入れとくね。